「コーチってどんな人?」
私、阿部文彦はこんな人間です!
<プロフィール>
なまえ: 阿部文彦
ニックネーム: ぶんちゃん
生まれた年: 1975年
出身: 東京生まれ、北海道育ち、
現在、東京都目黒区在住。
<ライフワーク/肩書き>
★コーアクティブコーチ/対話創造士
→創造的な対話から、自分らしい人生の軸と、実現のための行動習慣を作り出すプロフェッショナル。
現在の主な対象は、アントレプレナー/クリエイターなどの個人。
→国際コーチ連盟(ICF)認定のコーチ養成期間「CTI Japan」で、計116時間のトレーニング経て、Co-Active Coaching応用コース修了。Co-Active Leadership Programで計200時間以上のトレーニング修了。
☆Webコンサルタント/プランナー (Web creative unit YUKAFUMI)
☆Webディレクション/プロデュース講師 (デジタルハリウッド東京本校)
☆カレーライススペシャリスト…東京のカレーを食べ歩いています(^^ゞ
<強み/リソース>
[クリエイター/プランナー]
0→1を生み出す知恵と技術。「それいいね!」を実現させるアイデア、仕組みの提供。
[コミュニケーター/ディレクター]
想いをつなぐ。クライアント・スタッフ・ユーザー、様々な立場を超えて、ひとつの場をつくる。
[ライフスキル]
最愛の人と共に生きる喜びと充実感。感謝、尊敬、信頼関係から生まれる相乗効果と成長。相手を信じる強さ。
<生い立ち/想い>
…少々長文になります。私を自己実現のパートナー(パーソナルコーチ)として検討している方に、私はどんな人間で、何を経験し、これからどうして行きたいのか?それらを感じて頂ければと想い書きました。
●幼少時に両親が離婚。家庭内暴力に怯えて育つ。
私は1975年に北海道生まれの父と、九州生まれの母との間に生まれました。両親は互いの性格の不一致と貧困が原因のようで、毎晩繰り返される怒鳴り合いのケンカ声が、わずかに記憶に残っています。そんな生活の中、母は統合失調病となり、それが要因で私が物心着く前に両親は離婚、私は父親に引き取られ育ちました。
小学校低学年位までは家庭内暴力が酷く、殴る、蹴る、階段から突き落とされる、包丁を突きつけられるなど虐待を受けて育ちました。私は父が家に帰ってくるのが怖くて、父の乗る車のエンジン音が聞こえてくると、急いで自分の部屋に逃げ込む様な生活を送っていました。
また家は裕福ではなく、家計を助けるために小学校2年生の時から新聞配達をしていました。朝は4時に起き、冬場はマイナス10度を下回る中での配達で手足のアカギレが絶えない状態でした。学校が終わって帰ってきてからは夕刊の配達があったので「友達と遊びたくても遊べない」悔しい思いを今でも覚えています。
●父の再婚、新たな困難。
私が小学校高学年の時に、父は9歳位年下の子供を持つ女性と再婚しました。私には5歳下の弟ができ、新しい母親を迎えることになりました。暮らし始めて、新しい母親の態度は急変していきます。兄弟げんかをしても一方的に叱られ、そのうち無視されるようになり、食事の時間も、私だけが隔離され、大きな孤独を味わうようになりました。また再婚を機に、新聞配達の仕事はしなくて済むようになりましたが、お小遣いなど到底無く、年の初めに親戚からもらうお年玉は、1年間の銭湯代をやりくりに使っていました。また中学生の3年間で私服は1枚もなく、全ての時間を学校指定のジャージで過ごしました。
父は仕事が忙しいのかあまり姿をみることはありませんでしたが、中学3年生の3者面談(親・子供・教師の3者で進路話し合う場)の席で、唐突に「この子は、中学校を卒業したら自立させます」と宣言され、中学校卒業と同時に家を出て、働く事を余儀なくされました。
●中卒で自立、働きながら高校、専門学校を卒業。
中学校を卒業と同時に、埼玉県にある自動車部品の製造工場に勤めることになりました。そこで働きながら高校に通いました。仕事は単純な肉体労働。1つ数分で完成する単調作業を、1秒でも早くこなすことが目標です。トイレに行きたくても交代要員を呼ばないと持ち場を離れることはできません。永遠と続く単調な労働は、肉体的苦痛よりも精神的苦痛の方が大きいものでした。
高校卒業後、自分でやりたい仕事を考えて、ゲームクリエイターを目指すため、専門学校に通うことを決意します。学費という大金を用立てできない私は「新聞奨学生制度」を使って働きながら通学しました。新聞奨学生もなかなか継続が困難な忍耐のいる仕事でした。朝は3時起きで朝刊配達、そのあとは学校。帰ってきてすぐ夕刊配達、夕食後も、ひと月の約半分は集金で各家庭を訪問し、翌朝配る新聞チラシの折り込み作業をこなすと夜11時近くです。お風呂に入って布団に入る頃は12時を回っていて、翌朝3時にはまた次の朝刊配達が始まります。平均睡眠時間が3時間、これを2年間続けた同僚は3割に満たない数でした。無事卒業できましたが、今までの人生の中で、一番睡眠時間の短い時期でした。
●クリエイターになりたい→プランナーになりたい→本当は何がしたい?
専門学校在学中にパソコンを使ったものづくりに興味を持った私は、卒業後DTPオペレーター/Macintoshテクニカルユーザーサポートの仕事を経て、2000年からWebサイト(ホームページ)制作の仕事に就きます。初めは制作者からスタートして、デザインやマネージメント業務をこなし、2003年頃から念願だったプランニング(企画)の業務に就くことができました。同僚や上司、関係者にも恵まれ、大手上場企業の有名なサービスやプロダクトのブランディングWebサイトもチームで手がける機会を頂きました。
しかし、当初思い描いていた「大きな仕事をすれば、満足感や充実感が得られる」という考えは的外れであったようで、かえって、笑顔でいられる時間は減り、満たされない想いはどんどん膨らんでいきました。
●最愛の人と巡り会い、人生のパートナーを得る。
仕事への疑問を感じ転職した頃、ひとりの女性と出会います。言葉にすると「ビビッと来た!」という安易なものになりますが、会ったその日にこの人だと感じて、3回目のデートで結婚を申し込みました。彼女との関係は別の言葉にすると「ひとかけらの違和感もない」そんな感覚は今でも全く変わることはありません。
彼女も全く同じ気持ちでいてくれたようです。こうして私はかけがえのないもの――人生を共に歩むパートナーを得ました。彼女と共にいて一番強く感じるのは、自然に止めどなく湧き上がってくる幸福感と、それに対する感謝の気持ちです。それは彼女の純粋な「無償の愛」に共鳴していると感じていて、これは尽きることのない無限のエネルギーだと確信しています。
●人生で本当にしたいこと、なりたい自分に向き合う。
プライベートでの幸せを手にした私は、これから人や社会にどう関わっていきたいのかを、真剣に考えるなかで「この人生で何かしたいのか?」を自分に問い続けました。その結果、とてもシンプルな答えがくっきりと浮かび上がってきたのです。
人の笑顔がもっと見たい。
人と関わって笑顔を創り出していきたい。
自分らしい関わり方で。
2007年6月、私はそれまで勤めていた会社を辞めて独立しました。インターネットの持つ可能性と、何もないところからこの世に二つとないものを創りあげるやりがい。その想いの向かい先を知名度や年収ではなく「自分が応援したいと思う人の笑顔」に向かわせることにしました。
(Web creative unit YUKAFUMIの詳細はこちらをご覧ください)
●イキイキした笑顔を創り出すのがコーチング。
会社を辞めて独立した頃、Web制作以外にも笑顔を創る道(方法)は、ないものかと考えていました。
ある日、たまたま家の本棚を整理していたとき、5年ほど前に購入して手つかずになっていたコーチングの本が出てきました。改めて読んでみて、大きな「可能性」を感じました。コーチングは知識ではなく体得だと感じた私は、CTI JapanのCoaching workshopに申し込み、参加します。その学びの場を全身で体感したときに、当初の想いは「確信」に変わりました。
こうして私は「人の笑顔を創り出す道」を歩むための「両輪」を手にすることができました。左の車輪がWeb制作、右の車輪がコーチングです。
コーチングの方は現在、パーソナルコーチとして活動しております。自己実現を目指す人の笑顔を共につくって行きたいと考えています。
私も、自己実現を目指して歩む途中の人間です。不安や恐怖や失敗を味わいながらも、これからも挑戦の日々を歩もうとする人達は、コーチとしてサポートしていきたい相手であり、同時に志を共にする「同志」でもあると考えています。
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